海上自衛隊誕生

sakura.jpg海上自衛隊は2007年で創設55年になります。
しかし、その創設の過程はあまり知られていません。
ここでは海上自衛隊の創設までの話を書いてあります。

昭和20年の終戦にともない日本の軍隊は解体されます。
しかし終戦直後から軍備の再建を研究している人物がいました。
それは吉田英三 元海軍大佐(終戦時43歳)です。
吉田は大戦時に作戦立案の軍令部海軍省に在籍していました。
終戦後、第二複員局に所属し外地から引き上げてくる日本軍軍人(353万人)の帰国の仕事をしていました。
吉田は、
『日本の軍備は自衛防御のためのものであって独立国として、日本自ら行うべきである。情勢の急変に常に即応できるようにする。』
と考え、仕事の傍ら永石正孝 元海軍大佐、寺井義盛 元海軍中佐と共に第二複員局での仕事をこなしつつ軍備再建計画案の研究を進めます

そして終戦から5年の昭和25年、朝鮮戦争が勃発します。
GHQは日本に進駐していたアメリカ陸軍などをを投入します。
これにより日本国内の空白を埋めるために新たら組織を設立することに迫られます。
昭和25年7月、陸上自衛隊の前進である警察予備隊が発足します。
軍隊の復活と言われるのを避けるため旧日本軍幹部から入隊は許されず旧日本軍とは断ち切った組織として創設されます。
吉田はこれに非常に危惧します。
新しい海軍には旧海軍の伝統と技術が必要と考えていたからです。
そこで吉田らは終戦後5年間の研究を早急にまとめ、この資料を日本政府要人に配ります。
っが反応は良いものではなかったようです。
この資料自体はには各地の部隊に必要な艦艇から隊員の数、配置計画、警戒範囲など詳細に作られ、軍の政治不関与も記載されなど、非常に理に叶ったものでした。

そこで吉田らは野村吉三郎 元海軍大将を通じてアメリカに働きかけます。
吉田らは野村吉三郎 元海軍大将に働きかけました。
野村は旧海軍艦隊司令外務大臣真珠湾攻撃時にはアメリカ大使など知米派で知られていました。
また野村はこの時、朝鮮戦争の作戦立案の参謀で来日にしていたアーレイ・バーク米海軍少将の助言もしていました。
昭和26年1月。野村は再軍備の私案を来日した米特使ジョン・フォスター・ダレスに渡します。
ダレスはこの資料に興味を示します。
その20日後、ダレスは吉田に再軍備計画を提出を求めます。
この求めにに応じて吉田は旧日本海軍の状況、終戦時の海軍の人員・階級・技能など再動因計画を270ページに渡って書き上げます。またこの資料では旧海軍軍人の有用性を特に強調しています。
この資料によりアメリカは日本の海軍再建に前向きに検討し始めます。

昭和26年9月、サンフランシスコ講和会議において正式な西側陣営に一員となり、これによりソビエトへの脅威に対する対応が求められるようになります。
吉田らは日本の再軍備を性急に整備することは憲法等のため難しいと考え海上保安庁を利用することを考えます。
海上保安庁を宿木に、いつかは独立し海軍になろつと考えます。
昭和26年10月にアメリカが日本政府に働きかけ軍艦が供与されるこになりました。そしてこの時『Y委員会』が創設されます。(「Y」は関係者の間で「海軍」を意味)
事実上の海軍準備委員会とも言えます。
Y委員会のメンバーは10名で、旧海軍から8名、海上保安庁から長官・警備救難監の2名でした。
海上保安庁側は組織の創設に辺り警察力の強化を主張しますが、旧海軍側これは強く反発します。
Y委員会はアメリカ側が旧海軍を後押ししたのもあり、旧海軍側のペースで進みます。

そして昭和27年4月26日、改正海上保安庁法が公布され海上警備隊が発足します。
公職解除により幹部のほぼすべてが旧日本海軍軍人が占めます。
その3ヶ月後の8月1日、警察予備隊海上警備隊を合わせた保安庁が発足。
昭和29年7月1日、防衛庁が発足し保安庁警備隊は、防衛庁海上自衛隊と改称されました。吉田らの思惑通りに独立・改称されたのです。
そして今日の海上自衛隊に至ります。
海上自衛隊は旧海軍の伝統を多く引き継いでいます。
軍艦旗自衛艦旗として使われ、幹部候補生学校では日々の訓練方法、口調を受け継いでいます。
明治以来受け継がれた血は断絶の危機にさらさますが、その血は今も受け継がれているのです。

参考:NHKスペシャル 海上自衛隊はこうして生まれた〜全容明かす機密文章〜